【校長ブログ】トカラ列島にて
9月最初の週末には、これまでに経験したこともない超大型の台風10号(アジア名Haishen海神*)が南西諸島・九州地方に襲来し、大きな被害をもたらしました。南大東島の南に達した時の中心気圧は920hPa、最大風速は50m/秒という猛烈な勢力で、米軍合同台風警報センター(JTWC)が指定する「スーパー台風」とされました。このところ台風の巨大化は、異常気象によるものなかのか、長期的な地球温暖化によるものなのか、はっきりしませんが、経験したことがない気象災害が増えていることに気象庁は警戒をしています。特に、台風では、暴風による高波だけでなく、気圧低下によって海面が上昇して起きる高潮は、思いがけない被害をもたらす恐れがあります。本校では、昨年度、教育後援会のご厚意により校庭の西側に防災倉庫を設置や全校生徒向けの災害用品の整備を更新していただきました。気象災害も含め、災害を今一度、自分のこととして受け止め、備えたいと思います。
さて、今回の台風の経路には、私が10代後半に訪問し、調査研究の基礎を学ばせてもらった島々が多く含まれています。中でも種子島・屋久島と奄美大島との間にある吐噶喇(トカラ)列島での経験は忘れられないものです。この島々は行政的には鹿児島県鹿児島郡十島村に属し、現在、人々の住んでいる島は7つ、688人(2018年)の住民が生活しています**。これらの島々に行くには、当時、鹿児島港から週に1便就航している定期船:十島丸***を利用しました。所要時間は、北の口之島から順番に島々に寄って、一番南に位置するロマンチックな名を持つ宝島を経て奄美大島に至るまで、約26時間という長い船旅でした。とは言え、当時は中之島と口之島を除いては桟橋がなく、定期船から8人乗りの艀(はしけ)に乗り換え、上陸しました。それも海が安定している半年のことで、海の荒れる冬季には月に1度しか船が来ないことも珍しくありませんでした。それゆえ、村役場も村議会、島民の移動の便宜を考えて鹿児島市の港の傍にあります。住民の住む地域(島)に役場を持たない日本では2つしかない珍しい村なのです****。
大学生時代の4年間をかけて7つの島を訪れましたが、当時は旅館も店舗も大きな島以外にはなく、小学校の体育館や公民館を借りて、大学の先生方と一緒に共同自炊生活をしながら、サンゴ礁や火山地形、地理学、日本民俗学などの現地調査を行いました。短くても次の船が来るまでの間が調査日で、島の人々の生活を圧迫しないように、食糧は鹿児島の港を旅立つ前日に詰め込みました。ただ、魚は島の漁協(と言っても小さな家)で買うこともでき、魚をさばくことのできる私の活躍の場となりました。島には小中学校はありましたが、ほとんどの島では夏休みと共に単身赴任だった先生方は当番の方を残して、それぞれの実家に帰ってしまいます。そこで、若い学生の私たちの出番です。調査が終わった夕方から、宿題を見たり遊んだりして、見返りに島の生活をいろいろと教えてもらいました。しかも公共施設を除けば、島に電気はなく、夜5時~10時の間だけ、各家々では軽油を使って自家発電で電力をまかなっていました。もちろん、それを使わせてもらう訳にもいかず、私たちの夕飯と夜のミーティングもろうそくの灯りの下でした。調査中には、私たちと同様に調査で訪れていた京都大学や東北大学、成城大学などの先生や学生たちと遭遇することもあり、学問領域を超えて教えてもらったり、多くの議論をしたり刺激を受け、今でも付き合いのある友人もたくさんできました。
調査から大学に戻った後には、学園祭の模擬店で得たお金でいくらかの図書を購入して、お世話になった島の学校に送り届けたりしました。40年前の当時でも「本なんて読まないよ」という声もありましたが、高校生になって鹿児島市内で寄宿生活をするまで(高校生の時から一人でアパート生活)、スーパーマーケットも本屋の存在さえも知らず、テレビもNHK以外は映らない生活の子どもたちからすれば、手元にずっと残る新刊本は島に新しい情報と文化をもたらす源でした。図書のもつ大切を、島の子供たちから学びました。
2学期から本校で始まった『午後の読書(15分間)』も大切に、有意義に利用してほしいものです。
*台風の防災と被害対策に関する国際機関である台風委員会(本部:フィリピンのマニラ)によって命名される共通の名称。
**かつては臥蛇島(がじゃじま)も有人島だったが、私が訪れる直前の1970年に廃村、無人島となった。なお、1954年まで奄美群島を含む北緯30度以南の地が、アメリカ軍の管理(占領)下に置かれていたことを知る人も少なくなった。
***現在は、2代目フェリーとしまが2017年から週に3便就航中。1970年代は500トン足らずの旅客船第3十島丸だった。
****もう1つの村も鹿児島県にある。十島村と第二次世界大戦前までは同じ村であった北側の3つの島々(竹島、黒島、薩摩硫黄島)は、アメリカ軍の占領によって分断され三島村として切り離されて独立村に。同じ理由で村役場は鹿児島市内にある。